私は学生として、教育のあり方に対して様々な疑問を持ち始めています。
「学問」とは生活を効率的に改善するために成り立ったと思える。一方、その反面、学問は宗教的なもの・不可思議なものを追求することから始まったともいえる。そして、質問を聞き続け、新たな発見をし始めたのかもしれない。こうして、我々人間は知らない世界にほじることになった。
「学ぶ」ことは好奇心から生まれたということである。この情報を知ることで、周りの人々の行動を変えてゆくのである。
今の学校教育は、そういった根本の姿勢・方向性と異なるように私は思う。
現在の教育は、順位や点数の世界になっている。私の学校では、皆がテストでなるべく高い点をとり、順位が高く、全体的な点数が良ければ良いと思っている。競争の原理に従っているともいえる。テストの内容も式に従い、正確な答えを求めることになっている。しかし、この方法では皆が同じ考えを持ち、一つの答えしかないことに生徒が勘違いしてしまうのではないだろうか。そして、なるべくその正確な情報を暗記し、覚えれば良いと思ってしまうのではないだろうか。何一つその情報に疑問を持つ事無く、点数や順位を得るために努力をしている。
そして、疑問や他の考えを持つことで「馬鹿」や「賢くない」と思われてしまい、もちろん点数も低くなる。「自分が知りたいことを学ぶ」より、「テストのことを学ぶ」事が重要視されている。これは学問の本筋から外れているというものなのではないだろうか。
学問→ 学んで、問うことである。質問を聞くことである
高い点数を得ることは、努力と才能が反映されていることには疑いはないだろう。大半の人々は点数の世界は平等だと思っている。ある意味平等で、コントロールしやすい教育のシステムかもしれない。
しかし、学問として良い結果を生み出さない可能性もある。このシステムが求めている正確さはロボットでも出来ることなのである。ロボットと人間を区別する一つの要素は、好奇心や興味、正しい情報を使って色々な方向性を模索できることである。学問として個々正しいと思えることも、時として誤っている可能性も否めない。こういった人間らしい考え方が学問を進歩させるのではないだろうか。
さらに、皆は自分なりに興味を持ち、違う意見を持っている。今の教育のシステムはその一つの意見に偏っているかもしれない。それに反する考え方や取り組みを否定する。教室内で、馬鹿らしい質問を聞くと笑われる。皆と同じ考えを持つように洗脳されている。ロボットのように情報処理をする。
それより、一般の考えに沿わなくても色々な疑問を持って、自分なりに学問を捉えるほうが人類に貢献する可能性があるのではないか。それが学問の本質ではないか。
そういう教育を認めてくれる社会であればいいなと最近感じる。
“Everyone is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid.”
人はみな天才なのに、魚を木登りで評価したら、魚は自分がバカだと思い込んで一生を過ごすことになる
MiniOmo
興味深いコメント有難うございます。 好奇心 個性 教育あらゆる面で 考えさせられる内容でした。個性的に生きて行くべきだと思わされる投稿でした。素晴らしい
返信削除学生の時にこんなに大切なことに気付いたのですね。確かに陥りやすい部分なだけに、気付きの先には個性の力が見えますね。これからの「個性」の輝きをとても期待しています! また、気付かせて戴いたことに感謝♪ 個性の力を信じて行きたいと思います!! Thanks so much !
返信削除素晴らしい投稿ありがとうございます!
返信削除「人はみな天才なのに、魚を木登りで評価したら、魚は自分がバカだと思い込んで一生を過ごすことになる」
いい言葉ですね!
手帳の目に付く場所にこのフレーズを書き留めました。
教育を受ける子供のためになる教育システムであってほしいですね。
ありがとうございました!
コメントが遅くなってしまいましたが、投稿ありがとうございました。
返信削除深いお話しをありがとうございました。何事も自問自答する事から始まるような気がします。今度は実際にお会いしてゆっくりとお話しを聞かせて下さい!